ソシャログ

社会の本質にゆるく迫ります。


いじめは根絶できないので隠蔽しにくい体制にすることが必要

根絶という発想は理想的すぎる

タイトルと矛盾するように感じられるでしょうが、筆者は、いじめは根絶できたらよいと思っています。

しかし、それは理想論です。極端にいうと、学生同士のふざけ合いの中で少しぶたれただけでも、いじめに感じる人もいるでしょう。

このように人間の感じ方は複雑ですし、ちょっとしたふざけ合いすら根絶するというのは無理がある話です。いじめはある瞬間には根絶できたとしても、次の瞬間にはいくらでも発生しうるものなのです。

もちろん、いじめを根絶できないからといって、いじめを見過ごすのもいけません。これでは、いじめの被害者は救われないからです。つまり、いじめは根絶できないことを認めてその被害者を救うには、いじめを隠蔽しにくい環境にするとか、加害者への処罰を具体化するしかないはずなのです。

強く気高い目標という圧力

しかし、教員や教育委員会にとっては、いじめという厄介な問題の発生を前提とするよりも「いじめを根絶しよう」「我が校にいじめは存在しない」と言い張る方が楽です。こういう危機感の欠落した姿勢が、いじめの隠蔽や肥大化を促してしまうと考えられます。

「いじめは根絶できる」という理想に沿った目標は美しく感じられますが、強く気高い目標は危機感を鈍らせ、いじめの隠蔽を促すでしょう。いじめの被害者としても周囲から何らかの圧力をかけられて、いじめの被害を言い出せないのかもしれません。いじめがまったく存在しない学校は理想的ではありますが、それは問題が表面化していないというだけで、実際には「問題が表面化できないほどの問題」を抱えているのかもしれません。

このような現象は、社会主義国が「政府が国民や経済を理性的に統制すれば、結果の平等と失業ゼロを達成できる」と主張していたことと似ています。しかし社会主義国の実態は、特権階級だけが潤うなど資本主義国よりも酷い貧困と失業が蔓延していました。社会主義国の困窮者は政府から圧力をかけられて窮状を訴えることができないのです。政府としても「失業ゼロ」「理想社会の実現」などというスローガンがあると、国民の窮状を認めることができないのです。これでは本末転倒でしょう。

【スポンサードリンク】